前田 功          昭和サラリーマンの追憶

              

      

                    学校・教育行政との闘い(概要)

             


 まえだ いさお 元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表


 

 

  2024年12 月号のこの欄で、娘の自殺のことに触れた。年に1回、年賀状のやり取りだけの人がいる。今年の正月、この人から、メールで「今年から年賀状をやめた」という連絡があった。その追伸に、「ネットで、『損保のなかま』を読んだ。『学校との闘い』、結局どうなったの?」という添え書きがあった。

 私がこの「損保のなかま」と関わり始めたのは、1999年、紙の新聞の時代。当初は、学校・教育行政との闘いのことも何度か書かせてもらったが、ネット新聞になった2019年以降は、この問題については、まったく触れていなかった。

 娘の自殺は、私の人生の最大の転機であり、最大の「追憶」である。せっかくの「昭和サラリーマンの追憶」という欄、これを欠かすべきではない。そう思って書かせていただく。

  1991年9月1日、次女晶子が線路に体を横たえて自殺。私が46歳のときだった。亡くなる直前、母親に、「明日、どうしてもつくし野中学に行かなければならないの?」という電話があった。学校で何かがあったということだけはわかったが、・・・。

  何があったのか知りたい。教えてほしいと教員たちにお願いしたが、彼らの対応は、「隠蔽と事実の捻じ曲げ」というしかないものだった。

  やむなく、情報公開・個人情報保護制度を使って、まず「晶子にかかわる文書すべて」を特定するよう求めた。そして、それらを開示請求した。非開示とされたものも多かったが、開示されたものの中から、それまでの教員らの言葉に隠蔽やウソがあったこともわかってきた。

  教員らは、「作文を書かせて調べてみます」と言っていたが、特定された「晶子にかかわるすべての文書」には、その「作文」は含まれていなかった。

  その「作文」の中には晶子の個人情報が含まれている。晶子が亡くなった今では、それは私の個人情報である。

  91年11月、その「作文」を前田功の個人情報として請求し、非開示処分となり、審査会に不服申立したが、92年10月、審査会は非開示と裁決した。やむなく、93年1月、「作文非開示取消訴訟」を起した。

  提訴に至る前もそうだったが、訴訟の展開の中で、さらに学校・市教委の隠蔽とウソが明らかになってきた。追及したが、どんな不当な行為が明らかになっても、「ないものはない」とか、「それがどうした。開示非開示とは関係ないだろう」と、学校・市教委は開き直った。

 たしかに処分取消訴訟は対象文書「作文」に対する非開示という処分が正当か否かを判断するもので、その過程で出てきた不正な隠蔽工作や事実のねじ曲げについては、それがどんなにひどいものかが明らかになっても、そのこと自体を糺すものではない。

 教員たちは、わが子の命を救いえなかった親の苦しみを理解し分かち合おうとしないだけでなく、情報を独占し、それを操作し、二重の絶望に私たちを追い込もうとしている。これを看過することはできない。

  また、「作文」は私たちが知りたいことの中のひとつの手がかりにすぎない。作文に書かれていること以外の晶子に関する情報も知りたい。教員たちはそれを知っている。

  それらの思いから、95年2月、私は、2つ目の裁判を提訴した。「学校の調査・報告義務を問う訴訟」である。「親の知る権利訴訟」とも呼んでいる。作文訴訟は私一人が原告だったが、こんどは私と妻、ふたりが原告となった。

  作文訴訟は、97年5月1審敗訴。高裁でも99年8月、棄却された。

  「報告義務訴訟」は、99年11月、実質勝利の和解をした。

  そして、2002年8月、作文の内容を読むことができた。

  なぜ読むことができたか?

  教員たちは作文の存否について、「あのクラスの分は焼却した」「返却した」などとウソを繰り返していた。彼らは、裁判中に、訴訟対象物である「作文」すべてを廃棄してしまうかもしれない。彼らの手の届くところに置いておくのは危ない、と思った。それで、作文訴訟に入る前に、同じ「作文」について、妻(晶子の母親)の個人情報として開示請求したのである。それが非開示の決定を受け、審査会に審査請求していたのである。なぜそんなことをしたかというと、母親の個人情報として再度請求すれば、今、「ある」としている分はすべて審査会に保管される。対象物保全のために保険をかけたのである。

 その分の審査会の審議は、訴訟の間、止まったままになっていた。そして作文訴訟控訴審棄却後、審査が始まり3年の時を経て、答申があったわけである。答申本文は「非開示」であるが、添付された別紙「内容整理表」で、私の求めはほとんど満たされた。

  これらの経緯を、この欄で、1回の紙幅で述べることは困難なので、今後機会を見てお伝えしたい。