斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
危なくてモノが言えない?
終電で降りた駅から、自宅までタクシーに乗った時のことである。深夜の大工事に遭遇し、身動きが取れない状態での、運転手さんとの会話。
「ここ数日、ずっとこんな具合なんです」
――そういや、このあたりは年に4、5回は地面を掘り返してるなあ。で、今回は何? 水道ですか、ガスですか。
「電線の地中化工事だそうで」
なるほど小池百合子東京都知事がかねて唱えてきた公共事業だ。コストが嵩みすぎる難点もものかは、東京五輪を控えて強引に進められているらしい。
――街の美観も大事だけどさ。夜中の騒音に悩まされっぱなしの住民が気の毒だ。
道を塞がれて腹が立ったのと、半ばお愛想のつもりで言った。だが彼は黙りこくった。しばし考えて、ふと思い至ったのは――。
この運転手は私を警戒しているのではないか。工事を悪く言う客に相づちを打ったからって、何ということもない…とは、現代社会では必ずしも言えないからだ。
なぜならSNSの存在がある。たとえば私の誘いに乗ってうかつな言葉を洩らし、それが意地悪くツイートされたらどうなるか。ダッシュボードには運転手の名前が記されている。
タクシー会社は交通行政との関係が深い。だからって簡単に馘首(かくしゅ)されることもなかろうが、余計なおしゃべりは避けておいたほうが無難なのは間違いない。私はそもそもケータイとかスマホの類(たぐい)は持たない主義なのだが、一見の彼にそんなことはわからない。
いわゆる監視社会のテーマを論じる際、私たちは国民総背番号制度や監視カメラ網など、大規模なシステムばかりを問題視しがちだ。
けれども今や個人1人ひとりが監視される客体であると同時に、監視する主体―すなわちビッグ・ブラザーならぬリトル・ブラザーにされてしまっている。どう克服していくか。