暇工作「課長の一分」

            誤解、無知?いやもっと性質が悪い?


 「安倍政権のもとでの憲法9条改定反対!」と労働組合のビラに書いたら「労働組合が政治活動をしてもいいんですか?」と突っかかってきた人がいた。
 

 この種の誤解は多い。いや、誤解というより無知かもしれない。第一、「安倍政権のもとでの憲法9条改定反対!」と宣伝・主張することは政治活動でもなんでもない。労働組合運動の様々な要求や主張の中のひとつだから、まさに組合活動そのものである。


 少し前のことだが、ある損保会社の従業員向けのビラの一角に「立憲主義を踏みにじる戦争法反対」というスローガンが入っていると、当該社の人事部役職者から同様の抗議を受けたことがあった。これにはもう一つの無知が重なっている。すなわち、そうした抗議自体が労働組合法で禁じられた「支配介入」にあたることを知らないという無知である。人事関係者なら、その程度の基本的知識は身につけておくべきだし、知りつつ行ったとしたら、これはもう悪質な犯罪的行為と言わねばならない。


 だが、暇がここで言いたいのは、その種の誤解や無知が、こともあろうに、労働組合側にもあることだ。それも勉強不足からくる誤解や無知なら、まだ改善・進歩の余地もある。しかし、経営者や時の権力への忖度だとすれば、問題の質が違ってくる。つまり、経営者や時の権力に迎合して、労働組合の自主性を自ら放棄しているからだ。


 「労働組合が旗を立てて国会前デモに行ったりすると、それを口実に労働組合に対する攻撃がかかり、組合はそれに対応できない。だから、無理をしないのです」
 暇に対して、そう語った労働組合幹部がいる。正直な態度かもしれないが、あまりにも気概がなさすぎる。それこそ忖度であり迎合だ。組合員に対する信頼もない。経営者から攻撃がかかれば、上記の論理で断固たる態度を示せばいい。組合員にも十分説明し、団結を固めて不当な干渉に抵抗して自主性を守ればいい。労働組合とはそうして成長していくものだし、法や権利はそのような不断の努力で磨かれていくものだ。
 

 いま、国などの公の論理が個のそれを押しつぶそうとしている時代だ。そのとき、労働組合には国民の先頭に立って自らの自主性を守り抜く大きな責任があるのではないか。