斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
東京五輪とはなんだったのか
なぜか省みられる機会も極端に減ったが、実は歴史的な醜態だった。東京五輪の開会式直前に立ち至っての、楽曲を担当するミュージシャンと演出をしていたお笑い芸人の相次ぐ退任騒動。
前者は小学生時代に障害のある同級生をいじめ抜いた悪業を、雑誌のインタビューで武勇伝として誇らしげに語っていたこと。後者はナチスドイツにおけるユダヤ人の大虐殺をギャグのネタにしていた過去が明るみに出て、五輪精神に著しく欠けると判断された。
当然の措置ではあったろう。特に秘匿されていたわけでもないプロフィルが、要職の選考過程で黙殺されていた異常。差別主義者ばかりが各界を牛耳っている社会のおぞましさを、改めて痛感せざるを得なかった。
ただ――。東京五輪は2013年9月の国際オリンピック委員会(IOC)総会で決定された。その直前には、当時も現在も副首相兼財務相の地位にある麻生太郎氏による、かのナチス発言があり、広く国際社会の猛反発を受けていたにもかかわらず。
多様性と調和の重要性をうたう五輪を開催する能力も資格も、私たちの国は待ち合わせていなかった。しかし、そもそも五輪とは、やたら絶叫されているほど、絶対的なものなのだろうか。
いかなる美辞麗句を振りかざしたところで、しょせんはカネカネカネのスポーツショー・イベントビジネスの差別性は免れないのではあるまいか。
でなければ、あの当時、世界一民主的とたたえられていたワイマール憲法下でのナチス台頭を、見習うべき対象であるかのように語った人物が強権を握り続けている国の招致を、IOCが受け入れるはずがない。はたして実現した東京五輪は、スポンサー企業の巨利の前に、何の罪もない新型コロナウイルス感染者たちがいけにえに差しだされる結果をもたらした。