斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
コロナにより露呈する「卑しさ」
昨年2020年は問題だらけの1年間でした。新型コロナウイルスの感染拡大はもとより、それにも絡んで政治家の嘘や見せかけのパフォーマンスが例年以上に罷り通って、階層間の格差が一段と拡げられたのです。
もちろん今に始まった話ではありません。ただ、今回のような異常事態の下で、日本における市民社会の脆弱さが、思いっきり露わになったということなのでしょう。
そこで考えました。私たちの何がどうダメなのか。
結論は、「志の低さ」です。「卑しさ」と言い換えてもよいでしょう。
指導的な立場にある人々が、やたらとバラ色の未来を語りたがります。たとえば「マイナンバー」を活用して、公平・公正な社会を築くのだ、と。
なるほど、やり方次第ではそれも不可能ではないのかもしれません。ただ、実際にそのための仕事に携わっている人々の言動を検証してみると、市民を番号で管理して支配したい、監視して都合よく操りたい、といった欲望というか、リビドーばかりが伝わってきてしまい、どうにもやりきれなくなるのです。
グローバル経済にあっては、今後も新しい感染症が次々に上陸してくるだろうから、対応する研究施設をどしどし築いていこう、という声も聞かれます。生物・化学兵器開発に転用される危険をさて置いても、市民の側がより多くの負担を強いられがちな構造が納得できません。グローバリゼーションで圧倒的な恩恵を受けるのは巨大資本であるのに、施設建設に必要な費用は、一般の市民や中小零細企業から搾り取った消費税、なんて構図、どこか間違っていませんか。こういうのが「卑しい」と、私は思うのです。
もっと考えて、よく取材し、報告したいことが山ほどあります。精進しますので、今年もよろしくお願いいたします。