昭和サラリーマンの追憶

 

 

            マスクをつけないで済む日は来るのか

      

 

           前田 功


  暑くなった。マスクがうっとうしい。

厚労省は520日、「2メートル以上を目安とし、他者との距離を確保できればマスク不要」という見解を出した。これを受けてマスクをやめようと思った人は多いはずだ。

 

私も、もう、しなくていいんだと思って、マスクをポケットに入れて家から出た。しかし、歩いている人はみなマスクをしている。マスクをした目が、私を「非国民」となじっているように思われて、心にかなりの圧力を感じた。浅草の仲見世くらい混雑したところならマスクも必要だろうが、郊外の住宅地だ。駅の近くでも、歩いている人は10メートルに1人くらいだ。そんなところでも、ほとんどの人がマスクしている。

私と同じような考えの人がいくらかはいるのだろう。6月に入って、1日に1人くらいは、マスクをしていない人に会うようになった。そんなときは、なんか「同志」に会ったみたいに感じる。マスクをしていない私を見て、マスクをはずした人がいた。嬉しくて会釈してしまった。

 

多くの人は、マスクなんかしたくないと思っているはずだ。しかし、外出のとき、しないではおれない。店で飲食するときは、していないで、外に出るときにマスクをする。おかしい。合理的ではない。マスクをするのは、コロナが怖いからではない。周囲の反応が怖いからだ。

 

「空気を読む」という言葉がある。身の回りに目を配り、他の人の迷惑にならないように気をつけ、自分の行動を律していくというのは、決して悪いことではない。しかし、この「空気」がマスクを強いているのだ。

 

そもそも、日本ではマスク着用は義務ではない。政府がどう言おうが、マスクをしようがしまいが個々人の勝手だ。しないからと言って、法で罰せられることはない。

日本は、「自粛要請」「緊急事態宣言」で、他の国々が行った「ロックダウン」(破ると罰せられる)とほぼ同じ効果を得た。これを「民度」が高いからだと言った大臣がいたが、この場合「民度」というよりは「同調圧力」が高いと言うべきだ。

 

こんなジョークがあるそうだ。 コロナ禍で、各国の政府が国民にマスクの着用を求めることになった。各国の呼びかけは次の通り。

 アメリカ政府「マスクをする人は英雄です」

 ドイツ政府「マスクをするのがルールです」

 イタリア政府「マスクをすると異性にモテます」

 日本政府 「みんなマスクをつけていますよ」

 

コロナが流行り始めたころには「マスク警察」、飲食店への自粛要請が出たころには「自粛警察」、という言葉をよく耳にしたが、「○○警察」が出動するまでもなく、目に見えない同調圧力のもとでほとんどの国民は、マスクをせざるをえず、自粛せざるをえなかった。

 

私も、この12年、嫌だ嫌だと思いながら、しかし、多くの人と同じようにマスクをしてきた。他の人も私と同じような思いでいたのだろうと思う。これを少し突っ込んで考えてみると、同調圧力に負けてマスクをしていた私自身は、一方で他の人から見れば、多くの人の一人であり、その人に「あいつマスクしてないぞ」と非難の視線を感じさせる圧力になっていたのではないか。この積み重ねが、私が嫌だなと思う世間の空気になっているのではないか、と気がついた。 どこかで、この連鎖を断ち切らねばならない。

 

一方が、「いつになったらマスクをしないで歩けるようになるんでしょう」と言い、もう一方が、「コロナが収まらないとね」と応える。いまや、挨拶がわりになされる会話である。しかしこのままでは、マスクをしないで堂々と歩ける日は来そうにない。

 

政府が見解を出してもこの連鎖は断ち切れなかった。どうやったら、この連鎖を断ちきれるのだろうか。

誰か、好感度の超高いタレントにでも、「マスクはやめようよ」と言ってもらったら、変わるのだろうか?