斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
国葬と日本の今
日本はカルト国家なのだと、つくづく思う。天皇が絶対だった戦前を指して言うのではない。21世紀も5分の1を過ぎた、今現在の話だ。
殺された安倍晋三元首相を国葬でも送るという。もちろん反対だ。故人の何もかもを国挙げて賛美する片棒を担がされてはかなわない。
岸田文雄首相が最初にそれを言い出した時、ちまたには批判の声があふれた。だが一切の異論は無視されて、閣議決定だけで強行する愚挙が選ばれた。
国の儀式は内閣府の所管と定めている内閣府設置法が根拠というからお笑い草だ。これは国の儀式と決まっているものの事務について述べているだけで、なぜ国葬なのかの説明でも何でもない。独善の極みだった安倍政治が、本人亡き後も継続されている。
憲法の理念はおろか、法の支配という原理原則さえ踏みにじられて特に大問題にもならない状況を、合理的に理解することは不可能だ。あえて説明を試みるなら、それは安倍氏を教祖のような存在として捉えたがっている、そうしたほうが得だと考えている人が、この国の支配層と、その支持者たちの中核を占めている可能性に行き着いてしまう。
自民党国会議員の多くが統一教会から大量の人的支援を受けてきたというのは、よく知られた話だ。そのことによる情報漏洩の程度は今後の検証を待たねばならないが、組織というのは構成員次第でどのような体質にもなり得る。
はっきり書こう。自公連立政権は、創価学会の影響力とも相まって、限りなく統一教会に酷似してきているのではないか。とすれば、自民党に支配されている日本社会の全体も、また――。
一度こうなったものは、そう簡単には治らない。完全に打破するのだという国民の総意があったとしても、あと何十年かかることか。安倍氏を長期にわたって最高権力の座に就け続けた私たち世代の責任は、あまりにも重い。