昭和サラリーマンの追憶
損保ジャパンの「課長立候補制」
前田 功
「昭和サラリーマンの追憶」という枠でこの1~2年書かせてもらっているが、各月テーマは違う。内容によっては、「なんでこれが『追憶』なんだ。『追憶』という枠名はおかしいんじゃない?」と思われる方もあるかもしれない。ただ、私の基本的思いは、「今起きているこんなことはおかしいよね。こんなことのなかった昔はよかった。」というところにある。そこのところをご理解願って今後もこの枠名で書いていくことにする。
先月号の続きだが、損保ジャパンでは、課長をジョブ型雇用として、希望者を募るという。つまり立候補してきた連中から選ぶということだ。課長の仕事は、本来、その部署の構成員みんなから信頼されなければ務まらないはず。それを立候補制にするって?立候補ということは俺を課長にしろ、俺を部長にしろという、まあ言えば「オレがオレが」のうざい奴らから選ぶということになる。
知人が選挙に「立候補」したと聞いて、「へ―、あいつってそんなうざい奴だったのか。今後の付き合い方、考え直そう」と思ったことがある。課長に立候補したと聞いただけで、多くの人は、同じような気持ちになるだろう。「私には人望がある」「人を動かす力がある」なんて公言する奴は、「人格破綻者だ」と言ってもいい。そんな奴らが課長だったら、課員はたまったものじゃない。
「俺が俺がの『我』を捨てて、おかげおかげの『下』で生きよ」である。
昭和の時代には、新卒であれ中途採用であれ、多くの場合、ある業務に特化した形で雇われるのではなく、まず会社の一員となる形で採用され、その後、社内での教育によって、その具体的な業務能力を高めていった。
会社は社員を家族のように迎え入れ、社員は共に生き、共に栄えるという考えだった。社員が頑張れば会社も成長し給料も上がる。そのうち課長や部長にもなれる。子どもに教育を受けさせ、家族を扶養することができ、30年〜35年ぐらい働いたら、老後の生活を営めるだけの年金などがもらえる。会社は死ぬまで面倒見てくれる。そんな信頼が励みとなって、社員は頑張ることができた。
仮に、あるひとつの業務が会社にとって不必要になったとしても、それに従事していたサラリーマンたちは、同じ会社において別の部署へと配置転換されるなどして、その会社の社員という地位は継続されるのが普通だった。誰かが忙しそうであれば、手伝うのがあたりまえだった。
課長の仕事のうち一番大事なのは、人を育てることだと思う。
人を育てるには、自分がその育てられる対象者以上に仕事を知っていなければならない。それが、外部から「俺が俺が」と言って立候補してきた奴らの中から、課長を選んで、やらせるって?変だと思う。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」である。
外部からポッと採用された人には、「やってみせ」ることなんてできない。新卒にしろ中途採用にしろ、新規に入社してきた人が能力を発揮するためには、新たな職場の風土や慣習、社内システムなどへの馴れが必要であり、前からその職場にいる周りの人の支援が不可欠だ。
昭和の時代には、職場に新たに人が入ってくれば、平社員でもその人の育成が使命のひとつとなっていた。そして、平社員も後輩指導でだんだん力をつけてきて、課長に手が届く時期になると、周りから「あいつもそろそろ・・・」ということで、課長登用となる。職場のみんなもその登用に納得する。課長ってそんなものじゃないかな。
ジョブ型というのは、人間を既製品の部品と同じように考えているのではないかと思えてならない。部品は成長したりしない。人間ってそんなものじゃない。職場というのは、働くことを通じて人が成長する場だ。労働力を時間売りして、カネだけもらって満足している場ではない。
昭和の時代、企業は人材育成を本気で行っていた。それが、ジャパンアズナンバーワンをもたらした。
しかし、その後、日本経済は凋落。ジョブ型志向は、人を育てることはせずに、既製品を求める考え方だ。ジョブ型では日本経済は持たない。