盛岡だより
野中 康行
(日本エッセイストクラブ会員・日産火災出身)
銭形平次
代表作『銭形平次捕物控』の作者・野村胡堂(1882~1963)は、私と同じ町内の出身で高校の先輩でもある。それを知ったのは高校にはいってからだったが、物語の主人公・銭形平次はもっと前に知っていた。何で知ったかははっきりしないが「冒険王」か「少年画報」の漫画だったような気がする。
他県で勤務していたとき、「生まれは?」と聞かれて、「盛岡の南、紫波という町で、銭形平次の親が生まれた地です」と応えていた。相手はテレビの銭形平次しか知らないから、「平次の親ですか。その役は誰がやっています?」とか「親が出てきます?」と反応してくれれば、さっそく胡堂と紫波町の話をするつもりだったが、そういうことはめったになかった。だいたいは怪訝な顔をされた。
胡堂の人物像を知ったのは「胡堂百話」という本を読んでからである。幼いころから中学時代へ、そして新聞記者から作家へ、さまざまな思い出が軽妙な短文で綴られた随筆集で、本は1959(昭和34)年に発刊されていたが、私が読んだのは1981(昭和56)年の文庫本だった。
当時、胡堂は報知新聞の社会部長で、捕物を書こうと構想を練っていたとき、社の窓から「錢高組」の看板が見えた。語呂がわるいから名を「銭形」にし、特技は飛礫(つぶて)、投げるのはいつも持ち歩く「四文銭」にした。ただ、それを思いついたのはどちらが先だったかよく覚えていないという。社の部員からは、平次とガラッ八は親分と子分の関係にはみえない、どうみても部長と部員の関係だと冷やかされる話にも、部下から慕われた彼の人柄がうかがえる。
胡堂は、『私の先祖は農民一揆に加わっているはずで、その血筋か、どうしても武士が好きになれなかった。だから、主人公を武士にしなかった』という。物語の平次は、下手人を捕らえてもその事情を聴いて何度も逃している。平次の人柄をよく知る南町奉行の与力・笹野新三郎は「平次。またしくじったな」と大目にみてくれる。人情にもろい平次と作者の人柄が重なってくる。
「銭形平次」といえば、長く続いた大川橋蔵主演のテレビ時代劇が思い浮かぶ。この文庫本を読んだときから、作者の人柄とテレビの作品に違和感を覚えたものだ。テレビでは、都会風に洗練されていて、人間臭さが出ていないのだ。テレビ用の脚本だから仕方のないことかもしれない。そんなことを書いた文章を地元新聞が載せてくれた。その後、大阪の錢高組から、社史の一部(コピー)が送られてきた。そこには銭形平次の名の由来と記念館の工事を請け負った経緯が書かれていた。
そんなことがあってか、今、私は「野村胡堂あらえびす記念館」(写真)の運営に理事として係わっている。