「盛岡だより」(2022.9)
野中 康行
(日本エッセイストクラブ会員・日産火災出身)
《岩手の小説家》 高橋 克彦
1983(昭和58)年、第29回江戸川乱歩賞を授賞したのが『写楽殺人事件』であった。私は仙台にいたが、受賞作家が同郷だったからすぐに読んだ。高橋克彦氏は私の生家(岩手県紫波町)近くで開業していた医師の息子で、父が幼いころの彼を知っていると聞かされ、さらに身近な作家になった。氏は後に、NHK大河ドラマ『炎立つ』(1993年)や『北条時宗』(2001年)の原作者でもあるから知っているひとは多いだろう。
文芸誌『北の文学』の編集委員だった三好京三氏が亡くなって、その後任が氏であった。2007(平成19)年の下期の号からである。
2009年だったと思うが、岩手日報社を通じて下野新聞社(栃木県)から合評会の取材申込みがあった。私が事務局のような仕事をしていたから記者と連絡を取りあった。そのとき、「なぜうちなのか?」とたずねた。
「いろいろ探したのですが、文芸誌を出している新聞社が岩手だけで、合評会もやっていると聞いたもので……」と、栃木でも文芸活動を盛り上げ、書き手を育成したいと思っているということだった。
合評会を取材した後、懇親会で取材の趣旨などを話してもらった。
記者はみんなにたずねた。「栃木県出身の作家を知っていますか? 」みんな黙った。私が「立松和平さん」と言うと、「そうなんです。彼ぐらいなんですよ」、私も知っていたわけではなく、取材の趣旨を聞いて調べていただけのことだった。たしかに、名の知れた栃木県出身の小説家は多くはなかった。
「栃木県からも克彦さんのような作家が出て欲しいと思って、岩手でどんな活動をしているか取材に来たのです」そう言うと、「実は、私は大の克彦ファンでして……」と、カバンから3冊本を取り出し、サインを求めた。
後日、取材記事が載った新聞が送られてきた。確かに、栃木でもこのような活動を期待するというような内容だったが、あの記者は高橋克彦氏に会うのが目的ではなかったかと、今でも少し疑っている。
氏のエピソードを酒席でいろいろ聞いた。彼が高校時代、昼食を学校に出前をとって食べていたという話は有名で何度か聞いた。歌手・弘田三枝子のファンだったことも。2012(平成24)年、第15回日本ミステリー文学大賞を受賞し、4月13日、盛岡市内のホテルでお祝のパーティーがあった。氏の隣に歌手の弘田三枝子がいて、「人形の家」と「バァケーション」を歌った。彼女の歌、40数年ぶりに聞いた。
小説『火怨』で、辺境と蔑まれながらも平和に暮らしていた蝦夷(えみし)の族長・アテルイ(阿弖流為) が、陸奥を支配しようとする朝廷・坂上田村麻呂軍と戦う姿を描いた。この作品に代表されるように、氏は、この地方の史実を題材にした作品を多く書いている。自分の生まれた土地にこだわり、光を当て続けた作家であった。だからだろう、いつも、『北の文学』で優秀作を取るような作品は中央でも十分通じる。ただ、そのきっかけがないだけだから、自信を持って書き続けろ、と皆を励ましていた。
だが、多忙と体調不良を理由に、2015年下期まで8年務めた編集委員を退任した。