「働く」はみんなのもの
竹信 三恵子
たけのぶ みえこ 朝日新聞社学芸部次長、編集委員兼論説委員などを経て和光大学名誉教授、ジャーナリスト。著書に「ルポ雇用劣化不況」(岩波新書 日本労働ペンクラブ賞)など多数。2009年貧困ジャーナリズム大賞受賞。
家事労働とケア労働(10)現場無視の仕事分断
10月25日、訪問介護ヘルパー国家賠償訴訟の控訴審が結審した。登録型訪問介護員3人が、介護労働者の働き方の劣悪さの責任を問い、国に賠償を求めた前代未聞の訴訟だ。
この訴訟では、介護保険法が市場原理主義を取り入れ、労基法が守られていない状態に対して厚生労働省が規制権限を行使しなかったことが問われてきた。
訴訟の中では、現場の声を無視して人件費節減にひた走ってきたいくつもの手法が浮かんだ。そのひとつが、ケアと家事の分離による人件費の引き下げだ。
介護保険は、発足当初から、身体介護と家事・生活援助に職務を分け、「基本報酬」に差をつけてきた。
身体介護とは食事や排せつ、入浴介助など、「直接利用者の身体に触れて介助する」もので「専門性が高い」印象がある。一方、家事・生活援助は、買い物代行や調理など身の回りを整える介護だ。
これは、家事は誰にでもできるという印象を利用し、「身体介護」への報酬より低く設定されている。ならすと労働全体の対価は安くなる仕掛けだ。
だが、買い物代行も調理も、利用者の状態を見分け、その改善を目指すという意味で、高い専門性を求められる。認知症の利用者に買い物の行き先を何度も尋ねられ、いらだたずに介護を遂行するには、病状に対する理解や経験が必要だからだ。身体介護より家事などの生活援助の方が難しいというヘルパーもいる。
介護する側は、身体介護と生活援助は一体のものと主張し続けてきた。だが、その声を無視し続け、安くあげる方法が追求される。その結果、利用者も実態に合わない介護に苦しむ。
家事とケアへの意思決定者の無理解と、知らないことは現場に聞けという謙虚さの喪失が、介護を壊す。