「盛岡だより」(2023.7)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
左見て右みて-730大作戦-
車を運転するときは道路左側を走り、バス停も自分の行きたい方向の左側にある。横断歩道を渡るときも、自分の近くを通る車がないか右を見てから左を見て確認する。
それが習慣となっているから、考えることも迷うこともない。だが、「明日から車は右側通行です」「明日から、まず左見て右」と逆になったらどうだろうか。
沖縄が、日本の敗戦でアメリカに占領されたとき、交通ルールもアメリカ方式になった。1972(昭和47)年5月15日、27年間の占領が終わり本土復帰して沖縄県になっても、この交通方式は変わらなかった。
日本の方式に戻ったのは返還された6年後のことである。私がそれを知ったのは、テレビの報道記者していた友人から、沖縄で、交通方式の変更という「世界でも稀な大事業」が進行中で、切り換え当日、自分が現地から生中継する予定だと知らせてくれたからだった。
本土ではあまり話題にならなかったが、この切り換えの準備作業は、3年あまり前から始まっていた。500以上あった信号機と道路標識約3万本を作り直して反対側への設置、路面標示の書換え、バスの乗降口変更と運転席の変更、停留所の移動、見通しの悪いカーブや交差点の改修、ガードレールのつなぎ目の張り替えなど作業は多岐にわたった。
「左見て、右見て」と教えてきた子供たちには、「右見て、左見て」と教え、県民に新交通ルールの徹底が図られていた。
作り直した標識にはカバーをかけ、路面に書いた標示もシールで隠した。切り替えのときは、そのカバーとシールで古い方を隠す作戦であった。この大作戦は、新方式実施となる7月30日に因んで「730(ナナサンマル)作戦」と呼ばれた。
1978(昭和53年7月29日(土)の夜10時、全県の道路が封鎖され作業が開始された。翌30日午前6時までの8時間で、それらの作業すべてを終わらせ、午前6時、県下にサイレンが鳴り響き、新方式がスタートした。
当日の朝、私はテレビに見入った。友人は、この大作戦はスムーズに進み大きな事故もなく時間内に切り換えられたとテレビカメラに向かって報告していた。「事故もなく」とは、もちろん切り換え作業だけのことである。その後しばらくは事故が多発し、混乱と大渋滞が続いた。
アメリカで、友人の運転する車に乗ったことがある。右側通行になんともいえない違和感を覚え、特に、交差点で右折と左折するときは対向車線に入ってしまう感覚に身体が反応し、そのたびに助手席で声をあげていた。沖縄の人たちは、毎日、こんな怖い思いで運転をし、新方式に慣れるまでそうとう苦労をしただろうと思ったものだ。
沖縄の人たちは交通方式の変更という苦難を2度も経験した。他国に占領されると、その地の住民は占領国の「ルール」を強いられる。その一例がこれだった。あれから45年経った今、占領されるということは、こういうことだと、今さらに思うのである。