「盛岡だより」(2023.7)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
長崎の鐘
作曲家・古関裕而は、軍歌・行進曲・応援歌など多くの曲を書いている。そのなかで、私が好きな曲は『長崎の鐘』である。
70年も前、小学生になって間もなくだったと思うが、藤山一郎ののびやかな歌声がラジオから流れた。歌の意味など分からなくても、もの悲しい旋律のなかにも晴れ晴れとした心地よさを感じたものだ。今聞いてもその感覚は変わらず、懐かしさが加わっている。
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市に原爆が投下された。
長崎医科大学のカトリック信者だった永井隆助教授(のちに長崎市名誉市民)は、原爆で妻を失いながら被爆者の治療にあたった。その後、自身も白血病を発症し終戦から6年後、43歳で亡くなった。
病床でつづった手記には、家の焼け跡で妻が身につけていたロザリオを見つけたことや、バケツに拾った骨がとても軽かったことなどが書かれている。この手記を随筆集として発刊しようとするが、GHQ(連合国軍最高司令部)はなかなかこれを許可しなかった。
作詞したサトウハチロウはそんな彼を手紙で励ましていた。自身も広島の原爆で弟を亡くしていたから、ふたりに通じるものがあったのだろう。
浦上天主堂は爆風で崩れ落ち、「アンジェラスの鐘」はガレキに埋まった。終戦から間もなく、この鐘がほぼ無傷のまま掘り出され、4ヶ月後には再びその音を響かせた。これらがモチーフとなってこの歌が生まれた。
♪ こよなく晴れた 青空を 悲しと思うせつなさよ……
まるで原爆の惨事がなかったように晴れわたる長崎の空。空が青く澄めば澄むほど、亡くなった人たちの無念な思いがつのる。
♪ なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る
転調して高音にのびるこの音階は、晴れた青空のもとで鳴り響く鐘の音のように聞こえてくる。レコードが発売された1949(昭和24)年、ヒットした『長崎の鐘』は日本中に鳴り響いた。この歌に原爆についてはひと言もふれていない。GHQの検閲を避けたともいわれているが、そのことが、長崎に限らずすべての国民の敗戦に打ちひしがれた心を癒す「鎮魂の鐘」となった。
私は一度だけ長崎を訪れている。
妻と九州旅行で、博多・唐津・伊万里と回り、平戸から佐世保を通って長崎市に入った。アルバムをみると、37年前の1986(昭和61)年11月24日のことで、よく晴れた日であった。市内の何か所かをめぐり、平和公園と浦上天主堂に立ち寄ったあと、旧グラバー邸から大浦天主堂を回った。と思うのだがコース順がはっきりしない。
観光旅行では、目の前の光景に目を奪われ、その地の過去や歴史に思いを馳せる余裕がないものだ。あのとき、浦上天主堂でなにを感じ、なにを思ったのか。この『長崎の鐘』を思い出したのかもまったく覚えていない。たまにこの歌を聞いて思い出すのは、天主堂の外観と厳かな礼拝堂の2コマ、そして、旧グラバー邸に咲く萩の花の1コマぐらいなものである。
♪ 召されて妻は天国へ 別れて一人旅立ちぬ……
このフレーズで、いつも22年前に逝った妻のことを思い出す。今となっては、あやふやになってしまった旅の記憶だが、鮮明なのはアルバムのなかで青い空と礼拝堂を背にして笑う、まだ30代の妻だけである。