斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
過剰な自己主張があふれるなかで
さいとう・たかお 新聞・雑誌記者を経てフリージャーナリスト。近刊「『マスゴミ』って言うな!」(新日本出版、2023年)、「増補 空疎な小皇帝 『石原慎太郎』という問題」(岩波現代文庫、2023年)。「マスコミ9条の会」呼びかけ人。
マスコミには「成注(ナリチュウ)原稿」という符丁がある。「今後の成り行きが注目される」という言葉で終わらせた記事のことだ。
突き放しているというか、無責任というのか。結語において何も語らない。むやみに敵を作らない、テキトーかつ無難な書き方だとは言える。
便利なテなので、私も産業専門紙の記者だった頃によく使った。だが一方で、客観性を装いつつ、実は語るべきものを何も持ち合わせてない、空っぽな自分自身を見せつけられているようで、嫌でたまらなくもあった。
やがて週刊誌記者を経て、月刊誌を主戦場とするフリージャーナリストとして独立。媒体の特性もあり、「成注」のお世話になる機会は減っていく。それでも、時に使いたい、または主張を避けるために応用したくなる誘惑を、私は1990年代の半ば頃だったか、意識的に封印した。
価値観の多様化が一気に進んだ時代。中途半端な書き方では、せっかくの取材内容が一人一人の読者に伝わりづらくなったと感じたからだ。そうするうち、周囲の同業者はもちろん、本家本元の新聞紙面からも、いつの間にか消えていた気がする。しかし――。
あの成注原稿が最近たまらなく懐かしい。ちまたには激しい自己主張ばかりがあふれていて辟易(へきえき)してしまう。あーでもない、こーでもないとウロウロした挙げ句、やっぱり簡単には結論を出せないや、今後の成り行きに注目するとしましょうか、ご同輩。――なんて、のんびりした雰囲気が醸し出されてくる文章を、もっと読めないものだろうか。いや、自戒を込めて書くのだが。
過剰な主張、というか思い込みに満ちた文章だらけでは疲れる。だけでなく、フェイクニュースの横行にも通じることは自明だ。
もちろん、モロに成注原稿そのものでは単なる後退だ。もっと深みのある、新しい表現方法を編み出したい。