「盛岡だより」(2024.11)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
燈火(ともしび)
「ともしび」とは、単に「辺りを明るくするために灯した火」のことだが、私はその語感とことばの持つ雰囲気が好きである。
燃えるさまは「ごうごう」とか「めらめら」と表現されるが、「ともしび」にはそんな激しさや動きがない。あるのは、落ち着いた揺らぎと周辺を包むやさしい光の炎で、それに安らぎを覚え、心を癒し、さらに生きる希望さえ与えてくれる。「ともしび」はそんな思いにさせてくれることばでもある。
文部省唱歌『冬の夜』は、明治45年3月に発表された歌である。知らないという人も多いかもしれないが、1番は、「ともしび」から始まる。
♪ 燈火ちかく衣きぬ縫ぬふ母は 春の遊びの楽しさ語る …………
戦後間もなく、私が幼いころのおふくろがそうだった。いつも薄暗い部屋で針仕事をしていた。独り言をいう癖があって、それがミシンにかわってもぶつぶつ言いながら妹たちの簡単服をつくっていた。
歌の「燈火」とはロウソクだろうかランプだろうかと考えたこともあったが、母を照らしていたのはいつも裸電球だったから、ともしびは「やさしい光」とイメージするようになった。
♪ 囲炉裏のはたに縄なう父は
……………囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪
2番には囲炉裏の火が出てくる。当時、岩手の田舎にあったわが家は、茅葺きの小さな家だった。玄関を入った三和土の脇に囲炉裏があった。自在鉤にかけた鍋でなんでも調理していたような気がする。
歌のように、囲炉裏端で縄をなう父の姿を見たことはないが、草履やツマゴ(雪ぐつ)を作っていたのは見ていた。火はとろとろと燃えていたから寒い時季には間違いがない。その光景を思い出すと、外は吹雪だったと思いたくなるのはたぶんこの歌のせいだ。
家を建て替えたのは私が13歳、昭和31年のことである。私は父が30歳のときの子だから、これらの記憶は父が40歳になったばかりか母は30代のころのことである。私たちの40代、今の40代の生活ぶりとは隔世の感がある。
人類は火を手にして闇から解放され、生きていくために火を必要とした。近世になっても火は灯りとしても貴重であった。近代になって「火」と「灯り」が別れた。囲炉裏が消え、焚き火も野焼きもなくなった。キャンプファイヤーができるキャンプ場も少なくなって、今は、ほとんど直火に触れることがない。灯りはいつでもスイッチ一つで手に入り、暗いランプ生活などはもう想像もできない。
「ともしび」は単なる「灯り」という意味しかもたなくなった。それも、いずれは消えていくことばなのかもしれない。