守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


  機動隊員との会話

 

 暑さもようやくひと段落した10月の金曜日、いつものように「ふるさと沖縄」を歌っていたら、近くに立っていた若い機動隊員が笑顔で近寄って来て、私の隣に立っていた仲間に「これは何という歌ですか」と尋ねた。彼女が「ふるさと」替え歌だと言ってもきょとんとしており、私が「元歌は小学唱歌ですよ」と言っても首をかしげていた。どうやら『兎追いし…』を知らなかったらしい。これには私も驚いたけれど、もっといただけないのは仲間の一人が「えーっ!知らないの?恥ずかしーい!」と、いかにも彼を馬鹿にしたように言ったことだ。にこやかにしていた機動隊員はとぼとぼと歩道の端っこに帰っていった。

 

 私は相手が機動隊員でも、高圧的な態度に出ない限り穏やかに話すことにしている。そもそも近頃の国会周辺の機動隊員は、口の利き方も丁寧でフレンドリーだ。もちろんどこまで本心かはわからないし、簡単に彼らに心を開くことはできないけれど、私たちが過激派でもテロリストでもなく、ただの平和を願う非暴力主義の市民なのだということをわかってほしい。

 

 裏金疑惑が発覚した頃、行動を終えて片付けていたら機動隊員が近寄って来て「帰っちゃうんですか?もうじき岸田が通りますよ」と教えてくれた。岸田さんでも岸田首相でもなく呼び捨てだった。あと5分程で来るというので、一旦しまったギターやプラカードを取り出して再開し、首相の車が来たところでいつもの「埋め立て止めろー!」に加えて「裏金議員は辞職しろー!」、「税金を私物化するなー!」などとコールした。再び荷物をまとめて帰ろうとしたら、機動隊員がにっこりして「お疲れさまでした」と言ってくれた。本当は彼も一緒に叫びたかったのではないかと思った。

 首相官邸からSPが出て来て交差点や横断歩道付近に立つと、首相の乗った車が近くまで来ている合図だ。私たちは歩道の道路側に並んでプラカードを掲げて待ち受け、「沖縄いまこそ立ち上がろう」をエンドレスでくり返し歌う。目印の青いランプを点けた車が視野に入ると、口々に「基地はいらない!」とか「代執行は不当だ!」などと叫ぶ。気温40度に近い8月のある日には、SPが並んでから車が来るまで同じ曲を大声で8回、ほぼ20分休みなく繰り返した。もちろん汗びっしょりだった。時間が来て撤収しようとしていたら、機動隊員が「よくこの暑さであんなに歌えますね」と話しかけてきた。「気合いよ、気合い」と答えたら、笑って「熱中症に気を付けてください」と言ってくれた。

 またある時は、議員会館前を歩いていたら機動隊員が後をついて来て、「どこに行くんですか?何をするんですか?」とうるさく聞いて来た。しつこいので立ち止まって振り返り、まっすぐ相手の顔を見て「戦争準備に反対するのは悪いことじゃないでしょう?あなた戦争で死にたい?」と訊ねたら、「いやー、死にたくはないっすね」と言ってもどっていった。

 

 私たちの辺野古埋め立て抗議行動常連の中では私が一番年下だが、それでも小学校を卒業してから半世紀以上たっている。「ふるさと」のような名曲は残してほしいと思うけれど、教材が変わっていくのはある程度やむを得ない。私たちが習ったことだけが良いものだとか、私たちが習ったことが常識だという基準で現代の若者を見下してはいけないと思う。確かに常識のレベルを疑ってしまう人もたくさんいるけれど、その一番の原因は個々の若者にではなく教育や文化の劣化にある。劣化を止められなかったのは、私たち高齢世代である。

 「ふるさと」を知らなかった件の機動隊員はすでに交代していなくなっていたので、引き継いだ人にいきさつを話し「さっきいた人に、仲間が失礼な言い方をしたから謝っておいて」と言ったら、爽やかな笑顔で「伝えておきます」と答えてくれた。

 

 フランス革命では国王の近衛軍であったフランス衛兵のほとんどが連隊を離脱し、民衆の側についてバスティーユの襲撃を率いた。ベルリンの壁が築かれる前には、およそ2000人の軍人や警官が鉄条網を飛び越え、塀をよじ登って東から西へ亡命した。今ミャンマーでは、国軍から多くの兵士が逃げ出し、民主派勢力に加わっているらしい。もちろん私は武力闘争はしたくないが、本当にこの国を変えたいと思ったら、機動隊員をも巻き込むくらい幅広い連帯を作らなければならないと思う。あまりに空想的すぎるという人もいるだろうが、少なくとも私たちが国家の敵でも機動隊の仇でもないということを理解してもらいたい。彼らも有権者で、労働者で、若者なのだから。