「盛岡だより」(2024.11)
野中 康行
(日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)
木枯らし
「木枯らし」とは、晩秋から初冬にかけて強めに吹く北風のことである。吹くたびに葉を吹き落とし枯れ木にしてしまう風の「木嵐(こあらし)」から転じたものといわれている。
その年に吹いた最初の木枯らしを「木枯らし1号」と呼び、気象庁は1968(昭和43)年から、その情報を東京と近畿地方に発表している。それには一定の条件下(期間、気圧配置、風向き、風速)で吹いた風を指すから、年によっては発表のない年もある。去年(2023年)、東京での「木枯らし1号」は3年ぶりの11月13日であった。この日、盛岡では初雪を観測している。
小学校生のころだ。北風に電線が鳴る。梢がざわつき散り残った葉が飛ぶ。寒さに縮こまりながら家に帰った。夜のとばりが下り始めたころ、吹きすさんだ木枯らしが止んだ。外に出ると、西の山並みがかすかな残光に黒いシルエットになっている。その上に濃紺の空が広がり、澄んだ大気を通して凍星が光り始めていた。寒いがきれいな空だった。
その後、木枯らしと聞くとその光景に唱歌『冬の星座』の旋律が聞こえてくるようになった。
♪木枯らし途絶えて/ 冴ゆる空より/地上に降りしく/ 奇しき光よ……
(作詞作曲・ヘイズ 訳詞・堀内敬三)
それはもう70年近くも前、私が中学生だったころだ。妹がNHKのラジオ番組でこの歌を歌ったことがある。ラジオでそれを聞いたときに思い浮かんだのがあの光景だった。「木枯らし途絶えて/冴ゆる空より……」の詩が、別々かもしれないあの光景を思い出させ、清らかで心地よい旋律がひとつの記憶にしてしまったのだ。
「これが木枯らしだ!」
という風を感じなくなってずいぶん経つ。吹かないまま冬になっているのか、吹いても気がつかないだけなのか。かつては、秋が深まり、木枯らしが吹き、霜が降りて徐々に冬になっていった。だが、近年はあまりにも早足すぎる。秋だと思ったとたんに雪が降ったりする。
木枯らしが吹こうが吹くまいが、何も損することはない。だが、季節の移ろいがもっと緩やかだったら微妙な季節の変化を味わうことができるのにと、何かを失った寂しさを感じる。「木枯らし」が記憶だけになってしまうのはもっと寂しい。
この稿を書いているのは10月の半ばで、つい最近まで真夏日があってようやく秋になったというときだ。そんなころに、木枯らしのことを書くのは季節外れの気がするが、広告チラシは冬物になったし、おせち料理のカタログも届いている。もうすぐ冬なのだ。この文章が読者の目に触れるころが、ちょうど木枯らしの吹くころである。強い北風が吹けば、たぶんそれが木枯らしだ。今年こそ、出会って吹かれてみたいものである。