今月のイチ推し本

 『我々の死者と未来の他者―戦後日本人が失ったもの』大澤真幸 

集英社インターナショナル新書


                       

         岡本 敏則

 

    おかもと・としのり 損保9条の会事務局員

 


 

 ◎市民的抵抗=アメリカの政治学者エリカ・チェノウエスが2010年に出した本で、1900年からその時点まで膨大な歴史的データを収集し、分析したうえで、暴力的な政治運動よりも非暴力の運動の方が、成功率がずっと高いという仮説を提起した。ピーク時に人口の3.5%が参加する運動はほぼ確実に成功すると。日本の人口にすれば400万人を動員するデモで何かを要求された政権は、その要求を全面的に受け入れるか、そうでなければ崩壊するほかない。21世紀に入って、世界はウオール街占拠、ブラック・ライブズ・マター、#Me Too、LGBTQ、黄色いベスト運動、ガザ戦争、ウクライナ戦争に関連した世界各地でおきている抗議行動。予感される破局の中には、気候変動、核戦争、格差や差別、監視社会による自由への脅威などがある。では日本ではどうか、2011年福島第一原発事故、2015年安保法制反対の大規模なデモ(15万人)が見られたが、どうして、日本社会だけ、市民的抵抗が他国に比べ少ないのか。日本人も破局のことはよく知っている。それならば、どうして日本だけ、そのような破局への歩みを自らの力で方向転換しようとする市民的抵抗がほとんど起きないのだろうか。本書はこの疑問に答える試みで(も)ある。

 

 ◎ナショナリズムと<我々の死者>=ベネディクト・アンダーソンはこう述べている。ネーションとナショナリズムは、18世紀後半から19世紀前半に、多くの地域では、19世紀の終わりから20世紀に次々と誕生した。無名の戦士、つまり匿名のままに葬られた死者に敬意が払われるということは、近代以前には全く考えられなかった。無名戦士の墓碑は、ナショナリズムが実際に働いていることの指標になる。そのことが同時に、ナショナリズムがいかに近代的なものであるかの証明にもなっている。ナショナリズムとは、国民という共同体が<我々の死者>を持つことを意味している。<我々の死者>とは、現在の<我々>が彼らのおかげでこうして存在できているのだと思うことができる死者たちのことである。ネーションへの所属とは、自分自身をその<我々の死者>の系列の中に位置付けることである。つまり、現在の<我々>もまた、やがて<我々の死者>の一員となるであろう。

 

 ◎加藤典洋「敗戦後論」(1995年)=敗戦後、日本人は、昭和初期からのアジアへの侵略が誤ったことだったと理解した。そうであるとすれば、日本人は犠牲になったアジアの2000万人の死者に哀悼を捧げ、彼らに謝罪しなければならない。が、こうした哀悼と謝罪が実質を持つためには、その前に、日本の300万人の戦争の死者を哀悼しなくてはならない。この順番については、絶対に譲ることはできない、というのが加藤の最も強調したことであった。当然右、左から激しく批判された。右は、靖国神社に祀られた死者を「英霊」として崇拝するタイプの人たちは、アジア2000万人への死者への謝罪という部分が気に入らなかったよくある反発。左は、日本の死者への哀悼を先に置いたことにあった。アジアの犠牲者への追悼を優先させるべきだと。誤った戦争に加担した日本の死者への追悼は、むしろすべきではないと。<我々>は、アジアへの侵略を含む戦争の遂行者の末裔であること。その継承者であることを引き受けなければならない。たとえ自分が戦後の生まれで、戦争にまったく参加していなくとも、謝罪し、哀悼する主体の「資格」として、戦争の遂行者との連続性を引き受けないわけにはいかない。アジアの死者への哀悼に先だって示される、日本の死者に対する哀悼の表明は、この資格を得るために必要な手順である。

*本書のこの部分を長々と述べてきたのは最も重要と感じたからだ。著者はこのあと、鶴見俊輔、吉本隆明、柳田國男、司馬遼太郎、村上春樹を通して、最初の問いを論じていく。本書を読み続けているということが哲学の講義を受けていると感じたことだ。高度なロジックの展開はすごい。読まれんことを希望する。

 

 ◎最後に=現代の日本人が<我々の死者>を失ったのは、今から80年余り前、祖先たちが、とてつもない過ちを犯したからであった。彼らは無謀で無意味な侵略戦争を遂行し、そして敗北した。我々の祖先たちは、取り返しのつかぬ罪を犯したのだ。そのことが、現在の我々にとって<我々の死者>の喪失として体験され、その空白を埋めるのに、我々は特別に苦労している。戦後の日本人は、この点で、不幸な歴史を背負っている。と、言いたいところだが、ここで立ち止まって考えてみよ。日本人だけが不幸なわけではない。どの国の歴史、どの共同体の歴史、どの集団の歴史にも、無数の過ちや罪が含まれているからだ。奴隷制があり、人種主義があり、民族差別があり、女性の抑圧があり、自由の侵害があり、特定の宗教の弾圧があり、異端審問があり・・・。そしてこれらの過ちは、定義上、取り返しのつかないものであり、常に手遅れの状態で見いだされる。取り返しが利く罪などというものは存在しない。人が、それらの過ちや罪や悪と戦い、これらを克服しようと決意するのは、それらが取り返しのつかないかたちですでに起きてしまっているからである。ただ近代日本の場合は、<我々の死者>の喪失を、総力戦の敗北という形で経験した。死者たちの誤りや罪は、敗戦とセットになることで、深く全面的なものとして示めされざるをえなかった。そもそも戦争を開始したことに、あるいは戦争を要請し、かつ正当化するようなシステムに、悪は宿っている。だが、その悪が、敗戦を通して経験されたがために、<我々の死者>の喪失は、ことのほか徹底したものとして経験されることになったのだ。

*未来の他者=未来の他者への視点がなければ、気候変動、核戦争への関心はない。あとは知ったことじゃない。我亡き後に洪水は来たれり。いろんな意識調査でも日本社会は、将来への希望を持ちえないでいる。あきらめは選挙の投票率の低さにもそれは現れている。

 

 *大澤真幸(オオサワマサチ)=1958年長野生まれ、東京大学文学部社会学科、同大学院卒業。専攻は数理社会学・理論社会学。2009年京都大学大学院教授を辞職。著作多数。