斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」


 

 

     「アップデート」信仰の怪しさ


 さいとう・たかお 新聞・雑誌記者を経てフリージャーナリスト。近刊「『マスゴミ』って言うな!」(新日本出版、2023年)、「増補 空疎な小皇帝 『石原慎太郎』という問題」(岩波現代文庫、2023年)。「マスコミ9条の会」呼びかけ人。


 「価値観のアップデート」なる言葉が乱発されるようになって、かなりの月日が経った。ただ単に、考え方を時流に合わせろというだけの意味では、もはや、ない。それができていないと見なされれば、老害だの時代錯誤だの前世紀の遺物だのと、罵倒を一身に浴びることになる。

 確かに、新型コロナ禍はあったし、ITやら遺伝子やらを中心にテクノロジーの類(たぐい)が加速度的な〃進化〃を見せているしで、人々の心理は激変の一途。人権意識もかつてないほど高まった、と言われる。

 ではあるけれど――。

 価値観が時代とともに移りゆくなどというのは、当たり前の話である。何も改まって目標に掲げたり、他人に指図されたりするいわれはない。

 最近の新聞で見かけたのは、「結婚の前提に恋愛を措く必要はない」という指摘だ。夫婦愛なんてものは家庭を女に任せ、男は外でガンガン働くのが効率的だという高度経済成長、もっと言えば資本主義の要請以外の何物でもなかったのだから、これからは生活のパートナーとしての暮らしやすさで相手を選ぶべし、と。

 ――なるほど。だが、ではその現代的な結婚とやらは、グローバルビジネスに、新自由主義経済にとって都合がよいから導かれたのではないと、誰が言えるのか。でなければ、ダイバーシティ(多様性)・マネジメントでイノベーションの創出を、といった標語でLGBTQが優遇される一方で、少し前まで憂慮されていた階層間格差の拡大や、子どもの貧困などの重要課題が放置され続けている状況を、どう説明する? 対中国の文脈で、あくまで〃民主主義〃を謳(うた)いたい米国の思考プロセスに追随しているだけなのでは?

 変えていかなければならないことと、絶対に変えてはならないものとが、世の中にはあるのだ。アップデート信仰もほどほどにしておかないと、と筆者は考える。