守屋 真実 「みんなで歌おうよ」

                     


 もりや・まみ ドイツ在住27年。ドイツ語教師、障がい児指導員、広島被ばく2世。父は元千代田火災勤務の守屋和郎氏 

                   


  ヒロシマに行かない代わりに

 

 8月の声を聴くとなんとなく落ち着かない気持ちになる。原爆の日を思うからだ。

 私は父の名が原爆死没者名簿に記載された2014年以来広島に行っていない。一つには首相が参列するような官製追悼式に出たくはないからだ。以前にも書いたけれど、アベが2014年の平和式典でその前年と同じ原稿を読み上げたことを私は決して忘れないし、絶対に許せない。

 もう一つの理由は、原爆ツーリズムを見たくないからだ。もちろん多くの人が戦争や原爆に関心を持ち、被爆地を訪れるのは良いことだと思う。それでも、8月6日だけは静かに祈ってほしいと思う。外国人観光客が増えた今日、まったく悪意はなくてもにぎやかに話したり、笑顔でピースサインをしながら写真を撮る人もいるだろう。それを見たくない。

 2014年に行ったとき、高校生くらいの若い人たちが平和公園で明るく踊りながら歌っていた。もちろん善意であることはわかる。若い世代は表現の仕方が違うのだということもわかる。だからやめろとは言わない。でも、私は見たくないし、聞きたくない。平和公園の地下には今も収集しきれなかった遺骨が眠っている。あそこは公園ではなく広大な墓地だと私は思っている。爆心地から1,2㎞では50%の人が、もっと近距離で被爆した人は80~100%がその日のうちに亡くなったとされている。8月6日は数万人の命日なのだ。

 死者を朗らかに、にぎやかに送る文化もあるかもしれない。でも、それは平和な時代に満ち足りた人生を終えた場合ではないだろうか。国に洗脳され、ひもじさに耐え、不自由な暮らしにも耐えて生きた人々が、一瞬tにして炭化し、或いは肉塊になり、幽鬼のような姿にされ、苦しみながら命を終えた日を偲ぶのにふさわしいとは思えないのだ。

 

 重松清の作品に「赤ヘル1975」という長編小説がある。この年広島カープはチームカラーを赤に変え、赤ヘル軍団の異名をとって念願の初優勝を果たした。カープの勝ち負けを縦軸に、広島に暮らす野球好きの中学生と東京からの転校生、被爆者や他市の空襲被害者の出会いと別れを横軸に、時に悲しく、時にユーモラスに生き生きと市井の人々を描いた傑作である。その終わりに近い部分、カープが優勝を決める試合の一場面を少し長いが引用する。(カントクさんは、市民球場のグランドキーパー、ユキオはスポーツ記者を目指す中学生)

 

 「ユキオから下の歳のモンは、強いカープしか知らんようになる」

 カントクさんは静かに言う。それでええんよ、そうならんといけんのよ、と自分自身に言い聞かせるように続ける。

 「こんならが、都会になった広島の街しか知らんのと同じよ」

 それでええんよ、それはほんまにええことなんよ、と噛みしめる。

 「ほいじゃが、忘れたらいけん、忘れてしもうたらいけんのよ」

 弱かったカープのことをーー。

 その弱かったカープを応援してきたひとたちのことを。

 広島の街に刻まれた、悲しみと苦しみと怒りと祈りを、決して忘れてはならないようにーー。

 

 広島に行かない代わりに、8月6日には父の遺影に缶ミカンを供える。なぜ缶ミカンかと言えば、被爆直後、顔の大やけどで口も開けられなかった父に、祖父がどこからか見つけてきた缶ミカンの汁を唇の隙間から流し込んでくれたという逸話があるからだ。当時は缶詰でも希少品だっただろうから、隠匿物資だったのかもしれない。ともあれ、汁の水分と糖分が父の命を救ったのではないかと思っている。「あの時のミカンの汁はうまかった」と父が言っていたのを私は忘れない。