暇工作「それをやっちゃおしまいよ」

    ひま・こうさく 元損保社員・現在個人加盟労組アドバイザー        


人には、誰でも「それを言っちゃおしまいよ」という矜持がある。労働組合も同じだ。課せられたモラルは重い。連合・芳野会長のように、政権党には熱心に秋波を送るが、市民や労働者の共闘については「共産党が入っているから」という理由で拒否することなどは、まさに、それにあたる。かつて、「恥の文化」と指摘された日本社会を芳野さんは平然と「恥を知らない文化」に変容させてしまった。

 ところで、いま画策されている「社友会」などを労働法上の正式な会社の交渉相手として公認し、労働時間問題などを交渉できるように、しようという動きもそうだ。批判精神を持ったまともな労働組合より、身内の、あるいは目下の組織を相手にする方が、経営者にとっては好都合だろうが、まさに、「それをやっちゃ…」ではないか。

 数年前、暇は、ある外資系保険会社(A社)における「労働者代表委員会」の構成員選挙に間接的に関わったことがある。そこで会社がとった言動も、「それをやっちゃおしまいよ」の(類(たぐい)だった。

「労働者代表委員会」とは、職場に過半数の労働者を代表する労働組合がない場合、労働者側が、会社との交渉の受け皿として構成する労働者の正規の代表組織のことで、そこと結んだ協定は法的根拠をもつことになる。前出A社でその「労働者代表委員」選挙が行われた。会社には、労働時間変更を早期に実現したい思惑があった。A社には全労連損保関連支部A分会があり、通常の交渉も行われていたが、「労働者の過半数を代表していない」から、労働時間変更についての交渉相手は「労働者代表委員会」でなければならないと、会社は主張したのだ。こういう経緯で「労働者代表委員」選挙は、会社主導で進められた。選挙ルールもあいまいだったが、会社は必死で立候補者を募って形式を整えようとした。実質は、会社に従順な社員を裏で「指名」して立候補させたのだが。全労連側も組合員数人が立候補して対抗した。ところが、会社が公表した候補者リスト(被選挙人名簿)には、上から順番に、会社の「指名」社員がずらりと並んでいた。「この順番で投票してほしい」という会社の公然の意志である。全労連側は「なぜこういう順序なのか?」と厳しく会社に質した。会社は「あいうえお順に並べただけ」とそっけない。だが、この弁明はすぐばれた。「あいうえお順なら、全労連の〇○は最上位に来なければならなかったからだ。それを指摘された会社側は一転して「いや、左から横右への横ならびにしたので、アルファベット順である。」と支離滅裂な言い訳を持ち出した。もはや、理屈ではない。論理破綻を指摘されても、恥じる心象もない。そのうえ、選挙では全労連組合員が広く支持を集めたのだが、そこに至っても、自分たちの態度を反省するそぶりもなかった。

 いま起きている「社友会」→労働組合」化の動きも本質は同じようなものだ。交渉とは、相手を尊重し、最低限の共通文化を持つことが前提だ。本性剥き出しで羞恥心なき相手と、労働組合や労働者は、どう向き合っていったらいいのだろう。