盛岡だより」(2024.8 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                    戦争を知らない子どもたち


 1970 (昭和45 )年、大阪万博のコンサートで歌われたのが『戦争を知らない子供たち』(作詞・北山修 作曲・杉田二郎)というフォークソングだった。

その後いろんなグループが歌ってヒットしたから、当時10 代、20 代だった70 歳以上の方なら知っているだろう。私が記憶にあるのは「青い三角定規」というグループが歌ったものである。

 

♪ 戦争が終わって 僕らは生まれた/戦争を知らずに 僕らは育った……

この歌は、集会やデモ行進でよく歌われ「反戦歌」と呼ばれた。当時は第2 次世界大戦を経験した親世代が多く、その世代から「戦争にも行っていない若者が生意気なことを言うな。そんなあまい歌を歌ってる場合じゃないだろう」と批判もされた。

だが、もともと「反戦」を意図したてつくったものではなかったようだ。のちに、作詞した北山修氏が「若いということはまだ経験していないことが多い。その経験していないことを責める者への抵抗の気持ちもあったが、もしも戦争が起こったら真っ先に逃げ出しそうな若者の軟弱さも込めた」と言っている。

 

8月15 日は79 回目の「終戦の日」であり、終戦直後に生まれた人はもうすぐ80 歳になる。

総務省統計局(2024.1.1現在)の資料によれば、すでに総人口の89.8%を80 歳以下が占め、80 歳以上の人は10人に1 人になっている。90歳以上の人が戦争を体験し、またはその記憶がある人だとすれば、その人は50人中1人である。

国会議員は衆参合せて713議席ある。そのうち80歳以上の議員は二階俊博氏(85歳)、麻生太郎氏(83歳)等12名だけで、残る701人は戦後生まれだ。今年も、各地で戦没者を追悼する式典や平和集会が催されるだろうが、そこで「平和」を語る人もほとんどが戦後生まれである。

今や、戦争を知っている人の3世、4世の時代になり、国民も政権の中枢も、ほとんどが「戦争を知らない人たち」になった。

 

岩手日報『岩手と東北アジア―交流と衝突―81』(4月21日付)に、「田中角栄と盛岡騎兵旅団」の記事が載っていた。

田中角栄元首相は1939(昭和14)年、21歳で「騎兵第3旅団騎兵第24連隊」に徴集兵として召集され、満州・富錦(中国・黒竜江省)で兵役に就き、そこで古参兵からのいじめを見聞きする。翌年、肺炎に罹り兵営内の広場で倒れ、傷病兵として内地に送還され、間もなく除隊する。その兵役を回想してこう語ったという。

「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて、日本の中核になったときが怖い」

彼は戦場での実体験は少ないが、自身の短い兵役で知った貴重な体験と教訓だった。彼の「戦争嫌い」は、この軍隊生活からきているといわれている。

 

『戦争を知らない子供たち』を歌った当時の若者は、戦争を聞いて育った世代である。戦争を体験した親世代への反発があったとしても、戦争は身近なものだった。

だが、次の世代からはどんどん遠ざかって無関心にさえみえる。国会議員の約6割が59歳以下で、4人に1人が49歳以下にもなっている。

 

田中角栄元首相が言った「怖いそのとき」が始まっている。(写真は広島市HPより)