前田 功          [昭和サラリーマンの追憶]

              

      

      損保生保子会社認可の夜

             


 まえだ いさお 元損保社員 娘のいじめ自殺解明の過程で学校・行政の隠蔽体質を告発・提訴 著書に「学校の壁」 元市民オンブズ町田・代表


 

 1992年(平成4年)の保険審議会答申で、子会社方式による生・損保の相互乗り入れを含む保険制度の自由化を進めるという方向が打ち出され、1996年4月の「保険業法」の改正で、生損保の相互参入がOKとなった。ただし、子会社方式でという制限がついた。

 私がいた損保会社でも94年の4月、生保子会社の開業準備が始まり、私はその部署に異動になった。そして子会社を1996年8月8日に設立。1996年8月27日付で生命保険事業免許を取得した。

 

 1996年(平成8年)8月27日、生保を所管する大蔵省保険1課から、「認可書を渡すから18時に、来るよう」との連絡があった。

 定刻に1課に行くと、会議室で待つように言われ、各社1~2名が会議室で待った。19時になって、担当者(課長代理?)が来て、「もう少し待ってください」とだけ言った。待たされる理由の説明はなかった。しかし20時になっても動きはない。

 やがて、担当者がまたやってきて、「23時まで待ってください」と言った。どこの会社の人かわからないが、1人が、「なぜ、こんなに時間がかかってるんですか?」と聞いた。担当者は、「アメリカからの連絡を待っているんです」とだけ言った。

 

 待たされている間、いろいろな思いが頭を巡った。

「アメリカから・・」というから、米国通商代表部から、医療保険など第3分野のことでいちゃもんをつけられているのだろうなとは思ったが、説明はない。

 大蔵から「認可する」との内諾があり、生保子会社を設立し、「認可書を渡すから」と、呼び出された後で、「認可できない」なんて・・・。大蔵も、「そんなことは今更言えない」ということで、アメリカとやり取りしているんだろうが、これでは、占領軍にお伺いを立てなければ何もできなかったマッカーサーの時代と同じじゃないか。日本は独立国ではないのか。

ワシントンとの時差は、マイナス13時間、23時と言っても向こうは午前10時。こちらの緊迫感は向こうにはわからないのだろう・・・・などなど。

23時になったが、動きはない。24時を過ぎて、「2時まで待ってください」との連絡があった。認可が決定しており、認可書を渡すだけのことが、なぜそんなに時間がかかるのか。

 認可書は結局、2時半ごろ手渡された。

その時間では家に帰るわけにはいかないので、会社の近くのホテルで仮眠した。

 

 1996年10月、生保の営業を開始した。アメリカとの間で何が起きているのか分からないまま・・・。

 その後、1年余り、生保子会社に在籍し大蔵担当として保険1課に通っていたが、認可書を渡された夜(いや実際にはその前日)、アメリカとの間で何があったのかについて、大蔵からは一切、言及はなかった。(その後、私は生保子会社から離れ、この欄の24年3月号「愛は永遠ならず」で触れた住宅ローン保証保険の担当に替わった。)

 

 その後、わかってきたこと(いやわかったというより、推察できたことであるが・・・)は、次の2つのことである。

  1つは、1996年12月、米国と日本は、1994年10月11日に出された日米両政府による保険に関する措置を補足する追加的保険合意を締結した。この合意書をみて、その日(1996年8月27日)起きたことについて、およその推測はついた。

94年に結ばれた協定では、規制緩和が謳われている。それに基づいて、子会社方式での生損保相互参入が可能になったとして、大蔵は96年の8月27日、認可書を渡そうとしたわけである。しかし、その年96年12月の合意書では、

「…外国保険事業者によって現在利用されている既存販売網を保護すること」

「第3分野における経営環境の急激な変化を避けるため、損害保険事業者の子生保会社は、ガン単品保険及び医療単品保険の販売を認められない。」

「2年半は、この激変緩和措置を維持する」

といったことが決められているのである。さらにこの合意は、96年の合意に遡ると明記されている。

これを読んで、あの夜、米国通商代表部で何が行われていたか想像がついた。この夜のやり取りを受けて、同年12月の合意書が作成されたとしか思えない。

94年10月の合意でも、第3分野に強い外国保険会社(実質は日本でガン保険のシェアを8割以上握っているアフラック社)への配慮については記載されているが、時期や方法について具体的、明確には述べていない。それに基づいて、大蔵省は子会社の営業認可を出そうとした。そこをアメリカ側から噛みつかれたのだ。

 

 もう1つは、アフラック社の日本における代表者・会長のチャールズ・レイク氏の存在である。彼は、1994年当時、米国通商代表部の日本部長の職にあった。

彼は現在、本社アフラックインターナショナル㈱の取締役社長でもある。私は当時、彼のことを全く知らなかった。知ったのは、簡保の不適切契約が取りざたされた2019年ころである。

(先日、何年かぶりに近所の郵便局へ行った。窓口で待っている間に、周りを見渡すと、壁や窓、至るところに、アフラックのガン保険のポスターが貼ってある。パンフレットも何か所にも置かれている。郵便局=かんぽ生命は、アフラックのがん保険を売っている。つまりアフラックの代理店でなのである。)

ネットに載っている経歴によると彼は日本部長の後、米国通商代表部の法律顧問もやっている。そして99年アフラック入社。2003年1月、日本における代表者・社長、05年4月同代表者・副会長、08年7月同代表者・会長。今もこの職にある。

 ということは、あの夜、われわれを待たせて、日本政府を問い詰めていたのは、彼ではないか・・・。もしその日、彼が日本部長ではなかったとしても、彼の意思を受けた人たちが交渉メンバーだったことは明らかだ。

 彼がアフラックに入社した経緯など知る由もないが、アフラックのシェアを守るために94年の合意に遡る合意書が作成されたこと。そのために認可書交付に一晩かかったことはまちがいない。