盛岡だより」(2025.3 

 

       野中 康行 

  (日本エッセイスト・クラブ会員・日産火災出身)


                                 

                                  コメ野菜は本当に高いのか

 

 

 私の友人に、農業にかかわる会社の代表を務めている方がいる。もう30年ものつきあいだが、彼からは農業に関するさまざまなことを教わった。

 最近、コメや野菜の値段が高い高いと騒いでいるが、「本当に高いと思うかい?」と彼から問われた。問いの意図がわからず答えに窮した。

 

 国内の農産物も農家の高齢化や異常気象などで生産が安定せず、昨年の秋以降、キャベツや白菜など野菜の高騰に加え、昨年来の『令和のコメ騒動』は今も続いている。 

長年にわたり「コメが余り」といって減反政策を続けてきたが、ここにきて国もようやく緊急用備蓄米の放出基準の解釈を変えてまで放出すると発表した。これまでは考えられないことが起きていると言い、「農家がJA(農協)などに売り渡す金額はいくらぐらいか知っているか」とも聞かれた。

 

 私の生家は農家だったから、3,40 年前の生産者米価はうろ覚えだがだいたいは知っていた。そのころは農協への売り渡し価格は1俵(玄米60 ㎏)1 万5000円ぐらいではなかったろうか。

 私のそれを受けて彼は言う。1980(昭和55年)あたりが1万8000円ぐらいで最も高かったが、それからどんどん下がり続け、2021 年には1万2000円まで下がり、米騒動が起きる前でも1万円~1万2000円ぐらいであった。

 

 そのような中で、突如降って沸いた「令和の米騒動」である。生産農家の売り渡し金額が高騰、玄米60㎏で3万円前後(特定銘柄品等は5万円~6万円)まで上がった。この価格は冷夏で不作となり一時的4万4000円のときがあったがそれを除けば、いわゆる「失われた30年」の最高値である。

 一気に跳ね上がったこの農家の売り渡し価格3万円を、日本最低クラスの岩手県の最低賃金で比較してみたという。1時間952円、1日8時間働いて7千616円で4日分にも満たない金額である。米農家にしてみればこの価格でもコメ作りを続けられる価格ではない。農家の時給は10円といわれ、後継者が育たない要因の一つでもある。

 

 彼は、スーパーで買うコメの値段を聞いてきた。私はひとり暮らしでコメを買うことも多くないから値段はあまり気にしなかったからあいまいに答えた。

 一般消費者が買い求めるお米屋さんやスーパーの店頭価格は5㎏で4~5000円前後ではないだろうか。近年は国民1人当たりのコメの消費量は年間で55㎏、つまり最低賃金で働いても6日も働けば1年分の主食であるコメを確保できることになる。もちろん私たちはコメだけを食べているわけではない。ちなみに野菜類は年間一人約100㎏を消費し、金額にして2万5400円程になるそうだ。この金額も最低賃金で換算すると約27時間、3日と少しの金額である。

 

 コメ・野菜が高い高いと騒いでいるが、最低賃金で働いても9日分で1年分のコメと野菜が手に入る勘定だ。それでも高いと思うか、と再度問われ私は「高い」とは言えなくなった。

 2023年総務省は家計の消費支出に占める食費の割合を発表した。

 それによれば、イタリア26%、フランス25%、イギリス22%、ドイツ19%、アメリカ16%で、日本は過去最高の29%である。主要国の中で日本国民がもっともゆとりのない生活をしているともいえる。

 国民が物価高騰、特に食料品に敏感になっているのは、生活にゆとりがなくなっている表れではないか。まずもって国民のゆとりを取り戻す施策が必要だろう。

 

 彼はまた農業は文化(カルチャー)だと強調する。昔は、コメや野菜は自給自足が基本であった。先ず一番生育の良かったところからタネを取り、翌年に備え保管した。同時に必ず神社や神棚へ奉納して、農事に関する伝統行事も継承されてきた。それが「アグリビジネス」と呼ばれるようになり、農業が「カルチャー」から「ビジネス」になって、日本の農業もすっかり変わってしまった。

 日本の「農政」がどこかで間違っていた。流通の問題もあるかもしれない。それを正さなければ、農業の衰退は続き、食料のほとんどを他国に委ねることになってしまう。同時に農業文化も消滅し続ける。

 

岩手県は「食料基地」と言われて久しいが、今や自動車やAI関連企業が県南地区に集中し工業県と変わりつつある。一方で岩手には「伝統」の食文化や郷土芸能なども多く、それは全て農業文化(カルチャー)と深く関わっている。

岩手県はいよいよ食料供給県としての出番かもしれない。工業と農業のバランスがとれ、そして農業文化の残る岩手県になってほしい。彼は、政治批判はしたくないと言いながら国の行く末を憂い、少しばかりの希望を持っていた。