今月の推し本
『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』田中優子 文春新書1472
岡本 敏則
おかもと・としのり 損保9条の会事務局員
NHKで今年の大河ドラマ「べらぼう」が始まった。主人公は蔦屋重三郎。蔦重についてまとめたかった著者は学部長や総長(法政大学)の職から解放されて文春の企画にのった著者はTBS「サンモニ」のコメンテーターでも有名な、オジイたちに人気抜群の田中優子氏(1952年生 専門は日本近世文学、江戸文化)。
では江戸時代へ。
◎蔦屋重三郎という男=蔦屋重三郎は1750年(寛延3)に新吉原(今の浅草寺裏の千束4丁目)で生まれ、1797年(寛政9)に亡くなった版元、つまり出版業者である。本姓は喜多川で、名を珂理(からまる)と言い、屋号が蔦屋で、店の名を耕書堂と称した。狂歌連での狂名は蔦唐丸(つたのからまる)である。父は尾張出身の丸山重助、母は江戸の廣瀬津与。数え年7歳の時母が家を出たという。重三郎は養子に入ったので、自身の姓は喜多川になった。1773年(安永2)ごろ、新吉原大門口五十間道に貸本、小売りの本屋を開店した。なぜ出版業者だったのに後世にその名が残ったのか、それは北川勇助という青年を、「喜多川歌麿」に育てたからである。また能役者斎藤十郎兵衛という芝居好きの人物を「東洲斎写楽」という浮世絵師にしてしまったからである。またサブカルチャーとしての江戸文化を活性化した江戸っ子の代表「山東京伝」、黄表紙を創り上げた「鯉川春長」、パロディの天才「太田南畝=四方赤良(よものあから)=蜀山人」や「葛飾北斎」が蔦重の店に出入りし、「十返舎一九」がアルバイトし、「曲亭馬琴」が番頭として働いていた。蔦屋耕書堂は、江戸文化を代表する人たちが才能を発揮する「場」だったのだ。蔦屋重三郎を語ることは、江戸文化を語ることになる。ここで言っている江戸文化とは、江戸時代前半の上方文化ではなく、後半に開花した「江戸の」文化である。
◎蔦重の使命=上方から伝わり、江戸で生まれ変わった江戸っ子のための江戸文化を、メインカルチャーとしての上方伝統文化に対峙した、堂々たるサブカルチャーとして創り上げ、守ることだった。その時「守る」とは、まだ「表現の自由」という言葉を持たない時代における、幕府の「治世完璧主義」から守ることである。つまりは、秩序優先、事なかれ主義の権力と対峙することだ。蔦重の根の国すなわち生まれ育った場所は、吉原である。吉原は「悪所」と呼ばれた。芝居町もまた、「悪所」であった。悪所に生きる者たちこそ、悪所を守る気概を持っていたのである。悪所には江戸文化が凝縮していた。しかしそれは、権力に立ち向かう「思想」などではない。彼らは思想においてではなく、日常生活において「別世」をつくってしまったのだ。
◎遊女=遊女は皆、家族が生き延びるために「前借金」をしたその借金の「かた」として、遊郭に送り込まれ、日々働いて借金を返している。返し終われば外に出られるが、返せなければ、借金を重ねて零落していく。「親兄弟栄耀栄華で売りもせず」=家族が裕福ならば、遊女は遊郭に送り込まれないのだ。つまり誰も、好んで遊女になっているわけではない。その時に吉原に送り込まれるのが深川(大阪の深川八郎右衛門が開拓し「深川」になった。そこに富岡八幡宮が作られると1655年(明暦元)、その前に料理茶屋が開かれ、そこが「岡場所」と呼ばれる非公認の遊郭になった)に送り込まれるかは、運しだいではないかというのがその時代の認識だった。江戸の人々は、遊女が致し方なく遊女になっている女性たちである、という根幹を抑え、そこに差別などあろうはずがない、という考えを持っていたのである。
◎「アイサ侍はネ、ありもせぬ軍(いくさ)を請合て、知行(領地)とやらを取て居なんす」=江戸時代は約250年間、戦争がなかった。しかし徳川将軍も含めて大名たちは領地を持ち、家臣の武士たちはその領民の年貢で生きていた。領地を与えられていた理由は、戦国時代の恩賞を基礎に徳川支配のもと、戦時には参戦するためだった。日常働いていないわけではなく官僚仕事の毎日とは言え、建前は「軍事を請け合って」いるのである。しかしそれは絶対ないとはいえないまでも、ほぼゼロに近かった。今で言えば「有事」という言葉で国民から税金で軍事費を徴収し、使いもしない武器を発注して、軍事企業を儲けさせ、その企業から入ってくる金を裏金として配分しつつ、時に選挙活動に使って議員の給与をもらい続ける、という構図である。
◎「雪ふれば炬燵櫓に盾こもりうって出づべきいきおひはなし」=この狂歌には、とりわけ本歌があるわけではない。しかし「櫓」「盾」「撃って出る」「勢い」という言葉が中世の武将による戦いのシーンであることは明白で、そのような男らしい、勇ましいあり様の対極に、炬燵にしがみつく江戸の男たちの可笑しさ、面目さが出ていて、まさに江戸時代らしい歌なのだ。狂歌とはなるほど、江戸時代にしか存在しえなかったことがわかる。近代も、中世と同じかそれ以上に、こんどは国家単位で戦いに明け暮れた男たちの時代であるから、こういう弱々しい歌はなかなか作れない。
◎「べらぼう」=ドラマでは遊郭のあり様を十分に表現することは不可能であろう。遊女たちと伝統文化との関係がわかるようにするのは、なおさら難しいだろう。江戸が移民都市であることを表現することも困難だろうし、狂歌連の様子や狂詩、狂文といった、「正」に対する「狂」、つまりサブカルや笑いの活気をドラマにすることは至難の業であろう。江戸文化は書籍でも物でも、創造されたものの只中に入っていくことで、初めてその本質が見えてくるのである。