斎藤貴男「レジスタンスのすすめ」
根を下ろす新自由主義リベラル
さいとう・たかお 新聞・雑誌記者を経てフリージャーナリスト。近刊「『マスゴミ』って言うな!」(新日本出版、2023年)、「増補 空疎な小皇帝 『石原慎太郎』という問題」(岩波現代文庫、2023年)。「マスコミ9条の会」呼びかけ人。
「新自由主義リベラル」なる新語を見つけた。といっても一般に定着しているわけではない。ある研究者が、教育を「市場化」させた近年の政策を批判する文脈で、独自に用いていただけなのだが――。
児美川孝一郎『新自由主義教育の40年~「生き方コントロール」の未来形』(青土社、2024年)。著者によれば、公教育を解体し、格差拡大を不可避にする「市場化」を支える社会層には2通り、ある。
一つは丸ごと受容し、自らも激烈な競争を能動的に勝ち残ろう、生き抜こうとする人々。もう一つが「新自由主義リベラル」で、国家主義や官僚統制に起因する既存の学校教育の弊害を克服し得る方策としての「市場化」に期待する社会意識だ、という。
なるほど、かねて教育機会の均等や個性の重視を主張していた識者やメディアが市場化をむしろ歓迎し、また社会課題の解決を目的に設立されたNPOなどが、広大な教育「市場」に続々と参入している状況も、これなら説明がつく。問題は、そうした社会意識がもたらす世の中が、どんな姿をしているのか、だ。
私たちには経験則があると思う。米国や財界からの要請を受けた形で主に2000年代、裁判員制度や法科大学院、司法試験合格者の増員などが図られた「司法制度改革」だ。
あの時も、長く続いた最高裁官僚支配を打倒できるかもとの思惑で、かつての青法協(青年法律家協会)の闘士らまでが、こぞって推進側に立っていた。その結果が現在の、たとえば最高裁と巨大ローファームの〃回転ドア〃人事の常態化ではなかろうか。単なる官民交流に留まらず、社会的に重要な裁判が従来以上にグローバル資本の価値観に塗れるようになった実態は悲惨だ。
教育の分野に限らない。「新自由主義リベラル」は、今やあらゆる領域に根を下ろしつつある。リベラルは本質を忘れるな、と言いたい。