暇工作   「支援はディールか」

    ひま・こうさく 元損保社員・個人加盟労組アドバイザー        


 

 「あなたは我々の支援に対する感謝が足りない」。トランプさんがゼレンスキーさんに言ったという。暇は相手の身分にかかわらず、こうした偉そうな態度は嫌いだ。

 支援の概念から、無償とか、ボランティア的なイメージが消え失せ、ディール(取引)とか、損得勘定の要素が多く入り込んできた。世の中結局はカネ、ということか。味気ない世界になったものだ。なにか、大切なものを忘れてはいませんか、と言いたくなる。

 ベトナム戦争でアジアの小さな農業国が世界最強のアメリカに打ち勝って独立を勝ち取ったのは、世界の人々の支援の賜物だった。支援は兵器ではなかった。世界の人々の意思、声だった。それが言論、文化、芸術、すべての分野に及び、幅広い戦線でアメリカ政府は孤立を深めた。支援の理想形がそこにあった。

 労働運動も「支援」とは、切っても切れない関係にある。個人や他労組への攻撃には、決してあなた(方)は、一人ではないと連帯の手を差し述べる。労働運動には損得計算より、連帯感の方が先に来る。

 とはいうけれど、そこにも、ディールとか、損得勘定がないわけではない。そもそも、他者への攻撃に連帯するのは、それを許せば自らにも累が及ぶと考えるからだ。連帯とは、気高い無償の純粋物ではなく、合理性や、ある種の計算が伴っているのも事実だ。

 個人加盟労組に関わるようになって、この問題はさらに悩ましく現実的になった。

 ある会社で数十人の解雇を含む企業縮小問題が起きた時、支援を求めてきた当事者たちに、支援する側のこちらが問われたことがある。

「あなたたちは、なんのために私たちを支援してくれるのですか?目的は何ですか?」。こちらが口を開く前に、いきなり、当事者からそう聞かれて、一瞬返答に窮した覚えがある。全く予想外の展開だったが、要するに「支援に対していくらくらい払えばいいのですか。費用はどのくらいかかりますか」という問いだと解釈することにした。さすがに、「これってあなた方の商売(ディール)ですか」と問われたわけではなかったからだ。 

 こういう場合、闘争が勝利し、バックペイなどを獲得できた場合、当事者の意思で、無理のない範囲でカンパを(いただけるなら)いただくというのが通常の展開だ。それを必要経費を除いた上で、今後もまた労組に駆け込んで支援を求めてくる無力の人のために積み立てる、という考え方である。連帯を全労働者視野で見るのである。(通常、駆け込み者はカネのない人が多い)。だから、これはトランプ流のディールとは、似て非なるものだ。「金なんかどうでもいい」とカッコつけるわけではないが、金銭的利得が絡むわけではない。ましてや、闘争の始まる前から、そんな取り決めが出来る展開にはならないのが通常だ。そこまでの見通しが立たない場合の方が多いからだ。多くの場合手探り出発である。労働運動の支援はあくまで全労働者的規模での連帯、ボランティアが本質なのである。